美智子様の実家が正田醤油でまんぷく?現在は公園で家系図や日清製粉!

美智子様といえば上皇后様になられました。美智子様の実家が正田家で正田醤油で朝ドラまんぷくのモデルにもなった日清食品?日清製粉の大金持ち一族?現在は公園?家系図がすごすぎ?美智子様実家のと正田醤油や朝ドラまんぷくとの関係や日清製粉!現在は公園?で場所は?家系図も!徹底的にまとめました。

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美智子様の実家が株式会社正田醤油創業?

美智子さまの実家である正田家は江戸時代、群馬県館林市に移り住み、初代正田文右衛門が米問屋で成功して館林市で1番の資産家になり関西でも有名な大金持ちになりました。

そして明治時代に入り、三代目正田文右衛門がキッコーマンの茂木房五郎に相談し明治6月12日、醤油製造を始めました。

これが正田醤油で、現在は叔父の宏二さんが社長を務めています。

館林駅西口には現在も『正田記念館』があり美智子さまの写真や正田家の歴史を見ることができますよ。

美智子様の実家がすごい?日清製粉!

平成から令和への代替わりで、上皇さまと共に、上皇后さまになられた美智子様。

公の場からは身を引き、現在は静かに暮らしておられるそうです。

そんな美智子様のご実家と、前クールで放送されたNHK朝ドラの「まんぷく」が関係していると言われています。

美智子様のご実家は、「日清製粉」で、まんぷくの主人公である安藤福の夫:安藤百福が興した会社のモデルである「日清食品」は、チキンラーメンやカップヌードルで有名です。

名前は凄く似ていますが、この2つの会社は関係あるのでしょうか?

美智子様は「日清製粉グループ」本社の創業家一族のご出身です。

日清製粉グループは主に、小麦粉の製造・販売を主な事業とし、その他、加工食品、中食、総菜、酵母、バイオ、ペットフード、健康食品、エンジニアリング、メッシュクロスなどの事業も扱っています。

1900年に、創業者の正田貞一郎氏が、群馬県に設立した「館林製粉株式会社」が前身です。

正田貞一郎氏は明治6年に正田醤油を創業した三代目正田文右衛門の孫にあたります。

1907年には、横浜に「日清製粉株式会社」を設立しましたが、同年10月に「館林製粉株式会社」と「日清製粉株式会社」が合併。

館林だと地方っぽく聞こえることから、社名が「日清製粉株式会社」に統一されました。

時が経て2001年には、社名を「日清製粉グループ本社」に変更しています。

正田貞一郎氏は美智子様の祖父にあたる人物で、貞一郎氏の三男の英三郎氏(社長、会長を歴任)が美智子様のお父様になります。

美智子様の実家が朝ドラまんぷく?日清食品!

対して「日清食品」は、NHK朝ドラ「まんぷく」のモデルになった安藤萬平氏が創業した会社です。

一度は繊維業で成功しますが、太平洋戦争で全てを失ってしまいます。

終戦後の日本は、深刻な食糧難に陥り、各地の街にはおなかをすかせた人が溢れ、栄養失調で倒れる人も後を絶ちませんでした。

この光景をみた安藤萬平氏は、食の大切さを痛感し、食品会社を設立しました。

その会社が1948年9月に「中交総社」として設立され、1958年(チキンラーメンを販売した年)に「日清食品」と名前を改めて、現在まで引き継がれています。

「日清食品」が扱っているのは食品で、即席めん、カップめん、焼きそば、インスタントご飯、スープヌードル、チルドラーメン、シリアル、アルミ鍋などの若い世代になじみの深いものです。

なので、「日清製粉」と「日清食品」は名前こそ似ていますが、組織も創業者一族も全く関係ありません。

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美智子様の実家の正田家、家族構成や兄弟姉妹!場所はどこ?現在は公園?

美智子様の旧姓は、正田美智子(しょうだみちこ)さんです。

ご先祖は、群馬県館林市で米問屋を職業としており、当主は代々、正田文右衛門と名乗っていたそうです。

館林市周辺では随一の資産家で、名声もあったので、遠く関西でも有名でした。

美智子様の祖父の正田貞一郎氏が、館林市で製粉業を始めたのが「日清製粉」の起源です。

正田貞一郎氏は、三代目正田文右衛門の孫にあたり、正田家の分家の出身でした。

東京高等商業学校(現在の一橋大学)の出身で、実業家を経て「日清製粉」を創業しました。

美智子様の父にあたる、正田英三郎氏は、長男の早逝、次男が学者になったため、三男でありながら「日清製粉」の後継者になり、会社を引き継ぎました。

実は正田家は、学者が多く、一族にも学者の方が多いようです。

美智子様の生家である旧正田邸は、東京都品川区五反田にある「ねむの木の庭」公園として開放されています。

美智子様実家の家系図がすごい!

美智子様は、二男二女の四人兄弟の長女にあたります。

父親についてはご紹介しましたが、母親は旧佐賀県士族にあたる副島綱雄さんの長女の正田富美さん。

正田富美子さんとも名乗っていました。

美智子さまの兄弟姉妹の家系図もすごい!

次に兄弟姉妹についてですが、美智子様の兄の名前は正田巌さん。

その正田巌さんの妻は、元総理大臣の浜口雄幸の孫娘にあたる方だそうです。

妹の名前が、旧姓:正田恵美子さん。

昭和電工の安西一族に嫁いでいます。

弟の名前が、正田修さん。

後に、日清製粉の経営を引き継いだのがこの正田修さんでした。

正田修さんの妻は、クラレ会長だった大原総一郎さんの娘さんです。

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美智子さまの母方の祖父の家系図もすごい!

美智子様の母親:正田富美子さんですが、旧佐賀藩士の家系です。

美智子様の母方の祖父にあたる副島綱雄さんは、上海で綿花事業に携わっていました。

美智子様は初の民間出身の皇后と言われていましたので、家系も相当調べられたのでしょうね。

美智子さまと昭仁親王の馴れ初めは?

美智子様と昭仁親王(上皇さま)との出会いは、正田家の別荘がある軽井沢。

2人が出会ったのは、1957年8月19日の軽井沢のテニスコートでした。

この日は、ダブルストーナーメントが行われていましたが、当時、皇太子だった昭仁親王は事前に「正田美智子さんをトーナメントに誘って欲しい」と話されていました。

美智子様の前評判が立っていたようで、皇太子様も美智子様とペアを組みたったようです。

ペアはくじ引きで決められ、2人はペアにはなれませんでした。

決勝は美智子様のペアと皇太子様のペアが対戦し、美智子様のペアが勝利。

皇太子殿下が相手でも手加減をしなかった美智子様に、皇太子様は心を奪われてしまったようです。

これがきっかけで、2人はテニスで親交を深めました。

戦後の皇室典範に改定で、民間人でも皇太子妃になれることは認められていましたが、やはり暗黙の了解のようなものがあり、旧華族から選ばれると思っていた国民が多かったようです。

皇太子様は、美智子様に結婚を申し込みますが、美智子様は一度、身分の違いから辞退されたそうです。

しかし、皇太子様の「国民と共に歩む女性を選びたい」とのお言葉から結婚を前向きに捉えました。

めでたく結婚が決まりましたが、民間から皇太子妃を迎えるというのは、皇太子様や父である昭和天皇にとっても大きな決断だったと思います。

美智子様のご実家の正田家の皆さんも、「娘を皇族に献上する」という気持ちだったでしょう。

美智子様の実家が正田醤油でまんぷく?現在は公園で家系図や日清製粉!まとめ

美智子様は民間出身の皇太子妃だったこともあり、子育てもご自身でなさっています。

普通は専門の養育係がいて、その人達がお子様たち教育をされます。

時代劇とかでも殿様の子供には、教育係の人がついて教育していますよね。

皇太子様(上皇様)も、天皇家の跡継ぎだったため、幼少期は親元を離れて育ったそうです。

まあ、昭和初期は戦争もあったので、疎開されていた影響もありましたが。

その為か、皇太子様もお子様たちをそばにおいて育てたいと考えていたそうです。

皇太子様と美智子様は、今まで国民から遠い存在だった皇室をより国民に近く、親しみやすい存在に変えていきました。

それが「平成」の30年間だったように思えます。

先月に、アメリカのトランプ大統領夫妻を国賓として迎えた天皇・皇后両陛下は、通訳なしで大統領夫妻と会話されていました。

側近の方に、通訳を介すよう促されて、やっと通訳の存在に気付いた天皇陛下が印象的でした。

安倍首相より、天皇・皇后両陛下の方が目立っていたかもしれませんね。

「令和」になり、皇室がどのようなものになっていくか注目してきたいと思います。

以上、ここまで読んで頂いてありがとうございました。

引用:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190524-00010000-jisin-soci.view-000

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